母と私の50年

 私は自分のことをいつも「アダルトチルドレン」と呼んでいる。たまに間違って使っている方がいらっしゃるが、決して”子供っぽい大人”という意味ではない。

アダルト・チルドレン(Adult Children:以下AC)とは、子どものころに、家庭内トラウマ(心的外傷)によって傷つき、そしておとなになった人たちを指します。子どものころの家庭の経験をひきずり、現在生きる上で支障があると思われる人たちのことです。それは、親の期待に添うような生き方に縛られ、自分自身の感情を感じられなくなってしまった人、誰かのために生きることが生きがいになってしまった人、よい子を続けられない罪悪感や、居場所のない孤独感に苦しんでいる人々です。

アダルト・チルドレンってなに? | 山梨県医師会

 私がどうしてそうなってしまったか、 その原因である母のあっけない死と、母が亡くなって私がどう変わったか変われなかったかを書き記してみた。

小さい頃から母のために生きてきた

 私は小さい頃から、母を喜ばせれば母がゴキゲンになって家庭内が平和になるとわかっていたので、母が望むであろう事を先回りして何でもした。母は不機嫌になると発狂して何週間も手に負えなくなるので、不機嫌になりそうなネタは全力で回避した。自分だけの力ではどうにもならないことも、他の人を一生懸命に説得して母に不利益が及ばないようにしたし、私の存在意義はそのためだけにあると言っても過言ではなかった。

 母が受験に落ちて悔しい思いをしたという、制服がかわいい中高一貫の〇〇女学院に入学したのも、母が「○○に行きたいでしょ?私あそこの制服着たかったのよ」と言ったから。塾の先生からは「あなたならもっと上の学校に行けるのに」と言われたけれど、無言で首を横に振った。

 その○○女学院に△△大学の指定校推薦が1名だけ来ていて、母はその大学にすごく憧れがあり「△△大学の推薦取れるといいわねえ」と言ったのでそれも従った。ここでも担任に「国立受験しないの?」と言われたが黙って首を横に振った。母が嬉しそうにお友達やご近所さんに「うちの娘がね・・・」と自慢?話をしているのを聞いて、これでヨシと思った。

 初めて自分で進路を決めたのは就職のとき。でも母が発狂しないように、自宅から通える一部上場企業の技術職を選んだ。「親に頼らないで自分で決めるなんてすごいわねぇ」と母は驚いていたが、少し自分が誇らしかった。

 ちなみに当時長くつきあっていた彼氏は、最初は「ぐりえちゃんといると何でもやってくれるから楽だ!」と言ってくれていたが、最後は「ぐりえちゃんといると自分で何もしない人間になる。このままじゃ成長できない」と言って振られた。ぽやぽやしてた人だと思ったが、就職して意識高い系に目覚めたようだ。「あとぐりえちゃんのお母さんがおかしいから。」とも言われた。

会社生活でうつ病を発症する

 会社でも、人の顔色を伺って先回りする生活は続いた。言われなくても「はい!やっときました!」という超有能社員だったと思う。場の空気が悪ければいくらでも場を和ませる技術は持ち合わせていたし、なるべく揉め事が起きないように色々な人と仲良くしてみんなの機嫌をとっていた。

 ただ最後に所属した部署には突発的にキレて後輩につかみかかったりする先輩がいた。こればっかりはどうにも前もって対処のしようがなくて、母が発狂している時を思い出すトラウマがあるから怖くて怖くて仕方がなかった。ちょうどその頃、仕事の負担が多すぎて毎晩終電で帰るわ食事もロクにできないわの生活だったのに、旧姓の通称使用禁止の件やフレックスタイム廃止の件で人事や組合に何度も呼び出されて揉めたり恫喝されたり、なんかもう精神的にもたなくなって会社で倒れてしまった。

 うつ病だった。そこから3年間の休業を経て会社を退職した。

 一度、精神病院に3カ月ほど入院したことがある。といっても閉鎖病棟ではなく「ストレスケア病棟」という合宿所みたいなところだ。社会生活のストレスから切り離して心身を整えるのが目的で、日中はホールに集まってみんなでプログラムをこなすのも自由、テレビを見るのも自由、買い物に出るのも自由だった。けれども母は一度も連絡もくれなかったしお見舞いにも来なかった。精神病になってしまった娘なんて、いなかったことにしたいんだろうなと悲しくて悲しくて泣いてばかりいた。

 そういえば、この話でここまで登場の気配すらなかった夫は、入院中不思議とほぼ毎日お見舞いに来てくれた。ちなみに夫は”立ってるものは親でも使う”人。最初は私が先回りしてやったりしてあげてることを喜んでくれたので私もやりがいがあり嬉しかったが、最近気づいたことには単に利用されているだけだった。私も夫と結婚したのは、とにかくその時家を出たかったからなのでどっちもどっちかもしれない。夫は結婚してからも私にはあまり関心がなく、自分がやりたいことだけをやる人だった。平日は家でほぼ会わなかったし、週末一緒に買い物に行くだけの結婚生活だった。

 そんな夫が、どういう理由なのか知らないが入院中だけは毎日来てくれたので有難かった。

仕事をやめた私はまた母のために生きていた

 退院後すぐ犬を飼い始め、私の心身は次第に回復してきた。

 ただ元気になると母からの連絡がくるようになり、電話で母の機嫌を取る生活が再び始まった。会社勤めの間はそんな時間もないので母も遠慮していたようだったが、退職したのを知るとせっせと電話をくれるようになり「実家に遊びに来なさい、実家をもっと頼りなさい、楽をしなさい」と言われたが、実家は私にとって休める場所ではないので生返事をした。しかも2~3時間続く電話の半分は芸能人や母の友達や遠い親戚など私の知らない人の話だし、残りの半分は父を罵倒する放送禁止用語満載の汚い言葉で、週に何度も聞かされるのはとてもキツかった。電話に出た瞬間「殺される!」とか「今からあなたのお父さん殺すから!」とか聞かされることもあったので、いまだに携帯電話の着信音がなるとビクッと飛び上がる。

 月に1~2回はお誘いがあって母とカフェや実家で会うのだが、それも母の話を聞いて機嫌を取るため。外出先でもおかまいなしに人相がかわって父への罵詈雑言モードに入ることがあるので、母といる時はずっと母の機嫌を取り続けていた。

 そんな生活を変えたのは夫の広島転勤だった。まだ読んでいらっしゃらない方は、過去記事を参照していただきたい。

横浜に戻ってすぐ母の調子が悪くなる

母が最後に来てくれたとき

 3年間の広島生活を終え、引越し荷物が到着して片付けが落ち着くまでの数日は横浜の実家で過ごした。母はとてもゴキゲンで私も嬉しかった。雑然とした新居に案内してちょっとだけ見せたらとても喜んでくれた。

 でも元気な母を見たのはこれが最後だった。広島のカウンセリングで適度に距離を取るようにとのアドバイスもあったしコロナ禍だし近いからいつでも会えると思い、それから実家に遊びに行ったりはしなかった。1か月後には母の80歳の誕生日祝の席を予約していたので、そこで会えばいいやと思っていのだ。けれど、夫が母の誕生日の2日前に受けたコロナワクチンの副反応でまだ体が怠いから行けないと駄々をこねるので、誕生日祝をキャンセルした。今でも心の底から後悔している。母がとてもしょんぼりしていたと姉から聞いたから。

 その1週間後から母は急に食事が喉を通らなくなり、みるみる痩せていった。コロナでずっと行くのをためらっていた病院に父が母を連れて行ったところ、卵巣がんではないかとのことだった。

 9月の連休で私は実家に2泊したのだが、母は飲まず食わずの状態であるにも関わらずベッドの上に座ってずっと発狂していた。死を受け止めきれずに精神不安定になっているのかもしれなかった。夜中の2時頃、思い込みと妄想で母が父を立たせて罵倒するのを、私は母と父の間の床に正座して黙った聞いていたのだが、突然母が「あなたはどう思うの!」と私を向いた。姉は時々「パパ謝りなさいよ」などとチャチャを入れていたのに、ずっと黙っていた私が気に入らないようだった。「あなたはどっちが悪いと思うのって聞いてんのよ!どっち?答えなさい!」私は何も答えられずにわんわん泣いてパニック発作を起こしてしまった。(広島ではこれもPTSDの一種と言われていた。)姉が私を部屋から引きずり出してくれたのを覚えている。

 翌朝母の病床に行って「ママごめんなさい」と謝ったら冷たい顔で「嫌だったらもう来なくていいわよ」と言われた。これが面と向かって母と二人で話をした最後の思い出だ。

それから1か月で母は亡くなった

 翌週末、私は朝から癌封じのご祈祷のお願いとお守りをいただきに一人で新橋の烏森神社へに行った。その日のうちにお守りを持って実家に行ったら、母は二回りぐらい小さくなっていた。口数も少なく「もうダメだ」と泣いていた。お守りを渡したら涙を流して手を合わせてくれたのを覚えている。

 それでも父がまだ母には生きていてほしいと強く希望したので、みんなでどうにか母を説得して、抗がん剤の治療を受ける予約を取った。調子が悪そうだったので今すぐにでも入院させたかったのだが、コロナのせいなのかわからないがベッドに空きはなく、治療までは自宅で体力をつけるように言われていた。体力をつけるもなにも、母は水すら飲むことができなかったのに。母はしきりに氷がほしいと言って、氷をしゃぶっているだけだった。

 翌週のある朝、実家から電話がかかってきて、母の意識が朦朧としているので緊急入院したとのこと。腎不全を起こしていたそうだが、懸命に処置してもらい一命はとりとめた。コロナ禍なので面会謝絶だし何もわからず心配していたところ、数日後に急にスマホが鳴って見ると母の名前。ドキーンとした。慌てて取って「ママ!ぐりえだよ!大丈夫!?」と聞いたら第一声が怒った低い声で「大丈夫じゃないわよ。ひどいね・・・」そして看護師さんに「これちがう。〇〇さん(お友達)にかけてくれる?」と言っているのが聞こえて切れた。これが母の最後の声。

 それから2週間母は頑張った。あんなに寂しがり屋で独占欲の強い母が、家族の誰にも会えずに2週間も過ごしたのは生まれて初めてだったのではないかな。我々家族はその間、病院に母がしゃぶる氷を毎日届けたり、転院先のホスピスを探して見学に行ったり、ケアマネージャーさんを決めて自宅介護の可能性を検討したり、できる事を忙しくこなすことで気を紛らわせていた。

 何度目かの差し入れの時、看護師さんに呼ばれてお話を聞きに行ったら「ぐりえさんですよね」と言われた。母が枕元の写真を見ながらよく私や姉の話をしていたらしい。せん妄も酷くて「ぐりえちゃんの結婚式に間に合わないから早く行かないと」と言っていたそうだ。私は人目もはばからず泣いてしまった。だが看護師さんのお話は、今後は一切携帯電話の取次ぎはしません、差し入れは週に1個に限らせてもらいます、規則ですからという無情なものだった。母との連絡は絶たれた。

 今晩越せそうにないからとやっと病室に入れてもらえたのは死の4日前で、母はかすかにまぶたを開けようとしてくれたし、わずかに手を握り返してくれた。もう怒ってないかな?怒らせてばっかりでごめんね。私はずっと謝り続けた。

 亡くなったその日も昼過ぎに面会が許可されて、父と姉とで意識のない母を囲んで思い出話をした。でも面会は30分と決まっていたので「また来るね」と言って振り返って見たのが生前の母の最後の姿だった。その2時間後に急変の知らせを受けて病室に戻ったが、死に目には会えなかった。最後に判明した正式な病名は卵巣がんなんかじゃなくて、悪性リンパ腫だった。

ロスタイム

 母が生前一番仲良くしていたお隣さんが母にお別れを言いに来てくださった時に「お母さんはいつもいつもお嬢さんたちのことをほめてたわよ。悪口なんて一度も聞かなかった。」と言ってくださって、ああそれなのになんて私は悪い子なんだろうと大号泣してしまった。姉からは、母が『私が死んだらぐりえちゃんの病気は良くなると思う』と言っていたと聞かされた。全部お見通しだったのかと怖くなって、パニック発作を起こした。

 私は母と距離を取ろうとしたり、陰でこうして母の悪口を言っていたり、最後はずっと怒らせてばかりで、本当に本当に親不孝だった。結局何もかもうまくいかなかった。

 でもこれだけは言える。本当に母が好きだった。母にはずっと笑顔でいてほしかった。

 アダルトチルドレンの呪縛というこの苦しみは、母が亡くなるまで消えないのだろう、母が亡くなったら自由になれるかもとずっと思ってきたが、そうではなかった。母が亡くなって1年が経った今もなお、自分の事より他人の事を優先してやってしまうし、自分が本当は何をやりたいのか全然わからないし、全ての人からよく思われたいし、そのくせ心の中は罪悪感ばかりだし、実家にも今住んでいる場所にも私の居場所なんてどこにもない。街を歩いていても通りすぎる全ての人の感情がピリピリと感じ取れて疲れ果ててしまうし、怒っている人がいると私が謝れば済むなら謝ろうかと思ってしまう。

 本当につらい。つらいけど誰にも言えない。

 母のために生きてきた私の役目は、もうおしまい。と同時に私の人生も、もうおしまい。残されたロスタイムは罰ゲームの時間なのである。

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