日記帳が出てきたので開いてみた結果

うつ病

 ブログを休んでいた間、たしか物理的に日記をつけていたはず・・・と思いクローゼットの中をごそごそ探したら日記帳が2冊出てきた。

 1冊目はハードカバーのカッチリした日記帳。おそるおそる開くと、いきなり意識高い宣言文が飛び込んできた。

この日記は
誰かに感謝する事だけを書く日記

条件はつけないこと
嫌味は書かないこと
抽象的なことではなく
具体的に簡潔に書くこと
あとから読み返して再び感謝すること

 ふぁっ!?なるほど。陰で悪口を言う自分に耐えられなくて『感謝日記』をつけることにしたらしい。どこか偽善的なニオイがしたが、とりあえずページをめくる。

 2015~2017年までは1日1行程度の感謝が淡々とつづられていた。夫に「重い荷物をもってくれてありがとう」母に「一番にメールくれてありがとう」愛犬に「笑顔をくれてありがとう」などなど・・・

 けれども2017年4月一度日記が途絶え、次の書き込みは2019年だった。

2019.2.19(火) 
 この日記を書いてない間、いろんな事があった。うつが再発したし広島に引っ越したし、またうつがひどくなった。
 さっきTVでデジタル・デトックスやっててスマホから離れてみようと思って、そしたらこの日記のこと思い出した。愚痴とかいっぱい書いてやれと思って押し入れから取り出してみて読んだら、なんか恥ずかしくなったよ。
 私が忘れていたのは感謝すること。1人で生きてるんじゃないってこと。
 明日からまた始めようね。そしてあとから読み返してまた感謝。
 明日と言わず今日からだ。

 ああ。これ、私が今まさに日記をめくりながら感じた全く同じ感想だ。この恥ずかしさは、当時の”偽善的”にすら見える自分の日記に対する恥ずかしさではなく、今の自分が感謝を忘れてるダメ人間であるという事への恥ずかしさなのだ。さすが同じ人である。時を経ても同じものを見ると同じことを考えるのだなあと、変なところに感心してしまった。

 2019年2月を境に心を入れ替えたらしい私は、夫や母や愛犬のみならず、カウンセラーの先生、Twitterのフォロワーさん、美容師さん、そごうの店員さん、メルカリの購入者さん、スーパーで話しかけてきたおばさん、平和公園で出会ったオーストラリア人夫妻、挙句の果てには天皇陛下にまで、ありがとうを書きまくっていた。実に涙ぐましく微笑ましい。

 だが!そんな日記も、2019年9月の書きなぐりを最後に突然終わっていた。

2019.9.23(月)
 1つだけ願いを言わせてもらえれば、最後のひとりにはなりたくないです。
 骨は樹木葬にして下さい。
 (愛犬名)と(愛フェレット名)の骨も一緒にまいて下さい。
 (夫)も一緒がいいけど本人が嫌がるならどちらでもいいです。
 いくらか人に貸してあるお金があるけどそれらは全部さしあげます。
 返さなくていいです。
 残った財産は、全額、動物愛護団体に寄付します。
 遺留分は認めます。
 どこの団体にするか追って考えます。

 えええー!大丈夫か?何があったんだ私!?
 何となく忘れようとしてたけど、そういえば2019年の秋は孤独に耐えられなくなって、アル中ぽくなって(お酒は弱いので「ほろよい」がぶ飲み程度)手首切りまくってたかも。ドロドロに荒んでたな、あの頃は。ちょっと胸の奥がズキっと傷んだ。

 そして2冊目の日記はなんと・・・(つづく)

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