生まれた土地を離れて広島で3年間過ごした話④

 前回お話しした通り、国の「自立支援医療制度(精神通院医療)」と広島市の「精神障害者通院医療費補助制度」を使うとカウンセリングが無料で受けられたので、私は人生初めての心理カウンセリングを広島で受けた。

 私の先生は、同世代ぐらいの上品で優しそうな女性の先生だった。自己紹介をした時から色々とほめてくださって、苦労話のときは本当につらそうに一緒に話を聞いてくださったり時には相手を怒ってくださった。先生というより、なんでも聞いてくださる優しいお姉さんのような感じがした。

 私の事をあまりご存じない方のために、少し家族について説明しておこう。

 私には天真爛漫な母がいた。母はもともとお嬢様育ちで上流志向の完璧な主婦であり、自尊心も強かった。一方父は、苦労しながら奨学金で大学を出て、ある電機メーカーに勤める仕事一筋のエンジニア。診断を受けたことはないが「アスペルガー症候群」であると言えば説明がつく性格をしていて、会社でも変人扱いを受けていたようだが、自分に自信があるので他者からどう思われようと興味がないようだ。そんな二人がお見合い結婚した。

 母は、生い立ちに何かあったようだ。父(祖父)にひどく怒鳴られていたとか、兄(伯父)たちから差別を受けたとか、そんな話をポツポツ聞いたことがある。母がテレビでニュースやスポーツを見て発する言葉は、基本的に男性蔑視の発言が多かった。それは男性への羨望と逆恨みからくる言葉なんだろうと、私は小さいながらに思っていた。

 生い立ちの反動なのか、母は父に対しては異常なほどの執着心をもっていた。父が母以外の人に優しいのはどうにも我慢ができないらしい。プライドを傷つけられたと思うようだ。例えば「出産で入院しているときに父が親兄弟を自宅に入れた」とか「自分は歩かされたのに父は親戚を車に乗せて横を素通りしていった」などの本当にどうでもいい「失敗談」を一生忘れないどころか、脚色がついてどんどん大きくなって母の記憶の大半を占有し、時には殺意にまで膨らんでいた。

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 母は普段は、朗らかで優しく少女のような人だった。が、少しでも機嫌が悪くなると顔から表情がサッと消えて、父に対する過去の恨み言がマシンガンのように口をついて出てくる不思議な病気を抱えていた。二重人格かと思うほどだった。父に向って「キチガイ!」「カタワ!」「クズ!」「死ね!」「殺してやる!」「土下座しろ!」などの汚い言葉をぶつけるのを延々と聞かされた。物が飛んでくることもあった。殴りかかっている時もあった。真夜中でも叩き起こされて床に正座させられ一晩中寝かせてもらえないこともあった。父と母のどっちが悪いかと迫られて、泣きながら「パパが悪い」と言わされることもあった。私の受験とか卒業式とか大事な日ほど母にストレスがかかるのか、前の晩は修羅場だった。けれども父はアスペなので、母の歪んだ文句は自分の記憶にない「言いがかり」だとわかっているから決して謝らない。子供たちが「形だけでもいいから謝って」と頼んでも謝らない。それがまた母に火をつけて発狂する。物心ついたときからそんな毎日だった。

 姉は要領よくどっか行っちゃう人だったが、私はできなかった。ずっと母のそばにいて母が急変しないように話題を選びながら機嫌を取り続けていたし、母が急変したらしたで早くおさまってくれるように黙ってそばで話を聞き続けた。母を置いて遊びに行こうなんてしようとも思わなかったから、ずっと家の中にいすぎて顔に白なまずができた。

 初めて死のうとしたのは中学生のとき。母を殺そうなんて全く考えたこともなかった。この苦しみから逃れるには自分が死ぬしかないと思った。でもできなかった。母が死ぬまでずっとこのままなのかと諦めにも似た気持ちでいた頃、だいぶ時間はかかってしまったが、29の終わりに結婚してくれる人がいたのでようやく家を出ることができた。

 それでも時々母から電話がかかってきて、愚痴の聞き役を続けていたことには変わりなかった。私事でいえば結婚してから3年ほどで過労のためうつ病を発症してしまい退職を余儀なくされたのだが、今思えば、職場に母のように突然怒り出す先輩がいたこともうつ病の原因の1つだったかもしれない。

 先生にも少しずつ、母の話や家族の話をした。

 先生はまず「よく頑張って生き延びてこられましたね。」と優しくほめてくださったので、私は声をあげて泣いてしまった。先生がおっしゃるには、私は今問題になっている「ヤングケアラー」と同じだという。

「ヤングケアラー」とは、本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っているこどものこと。
責任や負担の重さにより、学業や友人関係などに影響が出てしまうことがあります。

ヤングケアラーについて|子供・子育てー厚生労働省

 そして「今まで十分すぎるほど十分にお母さまの面倒をみてきたのですから、もういいんですよ。これからはご自分の事を第一に考えてくださいね。」と言ってくださった。私が母からの電話に出られなかったりして罪悪感に押しつぶされるたびに「あなたはこれまでもう十分やったから大丈夫」と何度も何度も励ましてくださった。

 また両親のことを「他人の1カップルにすぎない」と教えてくださった。激しく喧嘩しながらも離婚しないで何十年もやってきているのは、それがその夫婦のバランスなのだと。私が心配しようがしまいがとりもとうがとりもつまいが、いい大人なんだからそのカップルは勝手にやっていくのだと。だから忘れなさいといわれた。私が持つべき感想は「変な人たちね!」でよいのだと。そう言われて実践していくと少し気持ちが軽くなった気がしたし、親の事を考える時間が少し減ってきたのを感じた。

 面白いこともあった。私はよく自分が殺人犯で死体をクローゼットにひた隠しにしている設定の夢を見るのだが、その話をしたら先生が「何かを押し入れにしまってあるのではありませんか?」とおっしゃる。よくよく考えたら、私は実家の自分の部屋の押し入れの奥の方に書き溜めた日記を隠してあることを思い出した。書いてあるそのほとんどが母についての苦悩で、あれを母に読まれたら殺されるかもしれないと思うほどの恐怖。それだ!と合点がいってから、なぜかその夢を見なくなった。

 そんなこんなで先生とのお付き合いは2年半だったが、広島で話し相手のいなかった私に、生まれてからずっと母の事を話せる相手のいなかった私に、神様がくださった貴重なごほうびの時間だったように思う。いつも母の顔色を伺っていたゆえに何事も誰かにお伺いをたてて動いていたようなことを、今週は母に電話しなくてもいいですよね?とか今日は犬の散歩お休みしてもいいですかね?とか、何もかも先生に相談していたような気がする。勉強が好きな私が資格をとりたいと言ったら応援してくださって、合格を誰よりも喜んでくださったのも先生だった。

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 昨年、横浜に戻ってすぐ母が亡くなった時、本当は先生に一番に相談したかった。でもあの時は医療行為だったから親身になってくださったのであって、個人的な付き合いではないのだからご連絡したら迷惑かなと思ってできなかった。先生ならなんて言ってくださるかなって、先生の声が聞きたいなって今でも涙が出る。

(つづく)

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