市立病院に来ている人たちを見て思うこと

 リウマチ科への通院のため、かかりつけの市立病院に行ってきた。今日は何故だか他の患者さんが気になってしかたなかった。

 リウマチ科に車椅子で来ていた超高齢女性。車椅子を押していた男性は少し若かったからお孫さんなのだろうか。「ありがとね」「いいよいいよ」と会話をしながら診察室へ入っていった。
 私も将来高齢になったとき、歩けなくなって車椅子になるのかもしれない。でも私には介助してくれる人は誰もいない。その頃には老人ホームに入ってたりして、お金を払って介護士さんにお願いするしかないのだろう。少し寂しい気持ちで二人を眺めていた。

 次に気になったのは、ロビーで見かけた車椅子の超高齢男性。車椅子を押していたのは、こちらもかなり背中の曲がった超高齢女性だった。ご夫婦なのだろうか。ぶつかりそうだのそっちじゃないだの、些細なことを二人で口論しながら、女性は車椅子を歩行器代わりにしているかのごとくゆっくりゆっくり進んでいた。老々介護である。
 今度は、うちの夫が車椅子生活になった未来を考えてしまった。そうなったとき、私は夫の介護ができるだろうか。二人とも前頭葉が退化して怒りっぽくなって、お互いに文句ばかり言うようになって、自分の体もしんどいのに夫の介護か。どんな気持ちになるのか想像もつかない。

 会計待ちの間に、病院内のカフェに入った。アイスラテを飲み終わって片づけようとしたら、隣のテーブルの高齢男性がウォーキングポールを2本持ってよろよろと立ち上がったまま、食べ終わったテーブルの食器を見て途方にくれていた。私は自分のトレーをささっと返却口にかたづけてから、素早く戻って「お下げしますね!」と男性のトレーを取った。男性が「ありがとうございます」と嬉しそうにおっしゃったので、「いえいえ!(よかった、迷惑がられなくて)」と私も温かい気持ちになった。
 私も昨年の頭ごろは杖ついてたから、他人事ではなかったのだ。けれど世間は他人にはあまりにも無関心で、困っている人にすぐに気づいて手を差し伸べるような人はほとんどいなくなってしまったよね。この時だって、周りには他のお客さんもカウンターには店員さんもたくさんいたけれど、会話をして微笑み合っているのは高齢男性と私の二人しかいなかった。他の人たちはみんな無表情に前しか見ていなくて、まるでアンドロイドに見えた。

 先月かな?私もこの病院で会計をしたあとに、吐き気と貧血で過呼吸になりそうになって、ロビーの椅子で横に倒れてしまった事があった。「病院だから倒れても安心だ」という思いと「この前過呼吸(?)で救急車で運ばれたばかりだからまた迷惑かけたらいけない」という焦りがグルグル頭を回る中、それでも「息をゆっくり吐かなければ」とフーッ、フーッと呼吸をしていたら少し動けるようになったので夫にLINEをして迎えにきてもらった。
 横に倒れてたのは15分間ぐらいだったかな。ロビーの警備員さん病院のスタッフさんお医者さん看護師さんやたくさんの患者さんお見舞い客が行き来する音をずっと聞いていたが、誰一人声をかけてくれる人はいなかった。やっぱりみんな、病院の賑わいを演出するために配置されてるエキストラのアンドロイドなのかな。まあ結局夫の車に自力で乗れて帰宅できたのだから、声をかけてもらわなくてよかったんだ。と思うことにした。

 私は、自分がそうするからって他人にも同じことを期待しすぎるところがあるのはわかってる。でもやっぱり今の世の中の人達って本当に冷たいなって思う。外に出ても、見知らぬ人とアイコンタクトする機会がほとんどなくなってしまった。例えば街中とか電車で挙動不審な人がいたりした時、「えっ?この人大丈夫?」て周りをキョロキョロ見渡しても、最近の若い人は一様に無関心だから不思議で仕方がない。みんなアンドロイドみたいにその場に佇んでいるだけで、決して視線を合わせようとしない。気づいてないのか気づかないふりをしてるのか知らんけど、アラートをその場にいる人で共有しようとか思わないらしい。たまに目が合うのは”おばさん”しかいない。※この年にして思うけど、”おばさん”のコミュ力は最高だ。

 ああ、私もこれからどんどん年を取って体が不自由になって、面倒を見てくれる優しい人もいなくて、今よりずっともっと世間から無視されるようになるんだろうなあ。だったらいっそ誰にも気づかれないうちに静かに消えていきたいと思う一日であった。

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