昨日は怠さと吐き気でダウンして寝込んでいた。今日は少し元気になったのだが、そうすると頭の中に浮かぶのは「食べなきゃ」「掃除しなきゃ」「犬の散歩に行かなきゃ」「お風呂に入らなきゃ」とやらなくてはいけない事ばかり。なんならスマホのゲームまで「ログボもらわなきゃ」「デイリーミッションやらなきゃ」とあれこれやらなきゃいけなくて、まったく楽しいものではない。生活のすべての時間が義務でしばられているのだ。たぶん死ぬまでこういう義務感からは逃れられなくて、そりゃ生きるのも辛いよなあと我ながら思う。
どうしてこんな風になってしまっているのか考えてみた。というか考えるまでもなく、それは私が物心ついた時からずっと「~しなきゃダメよ!」という言葉で育てられてきたからだろう。
母の常識で作られた義務。それをただひたすらに守り、母の激怒を回避することで私は生き延びてきた。母から「どうしたい?」と聞かれたことは一度もなかったと思う。たとえばご飯のメニュー1つとっても「今日は何食べたい?」と聞かれた事などない。出されたものを「おいしい」と言いながら残さず食べなければいけない、そういう生活だった。
(こうやって母の悪口ばかり書いてると母が悪いと思われたらいけないので補足すると、子供の頃に父と会話をした思い出はほとんどない。それは父が子育てを母に丸投げしていた無関心のせいでもあるし、母が私に嫉妬して父に私と話すなと言っていたせいでもある。)
そんな訳なので母亡き今もなお、私は自分に義務を課して義務の世界を生きている。唯一の趣味かもしれないと思い始めた野球だって「試合を見たいかも」という欲求は一瞬だ。欲求はすぐ義務になり「試合を見なきゃ」「チケットを取らなきゃ」「スタジアムに行かなきゃ」とだんだんしんどいものになってくる。
こんな癖は直さなきゃ(←これも義務?)と思って、しばしば「~しなきゃ」を「~したい」に言い換えて声に出してみるのだが、それでも無意識層から湧き上がってくる『義務を破って地獄におちる恐怖』の方が勝ってしまい、いつしか「~しなきゃ」という焦燥感で行動してしまうのだ。
本当は掃除も散歩もゲームも、食事もお風呂も睡眠も全然やりたくない。つきつめると生きていたくない。でも生まれたからには自分で死んではいけない、生きなければいけない。生きることさえ義務である。
いつになったら自分の欲求を持続させることができるようになるのだろう。


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