私のXのアカウントは@sweetacornである。”sweetacorn”を使い始めたのは、エッセイ執筆のためにfc2ブログを開設した時だった。当時飼っていたフェレットの名前が「どんぐり」ちゃんだったので、それを英語にしたらsweetacornかなと思ってよく考えずに決めたような気がする。後からsweetacorn(acorn)はスラングで性器を表すこともあるとか聞いて慌てたけど、元の意味はちゃんと「椎の実」のはず。
そんなことを今一度調べようと思いsweetacornを検索していたら、なんと偶然にも私の過去ブログを引用した論文を見つけてしまった。大阪大学の『日本学報』という定期刊行誌に掲載された、吉田幸代先生の『うつ病にまつわる〈ままならなさ〉を「書く」ということー「闘病記」をめぐる近年の動向を問い直す視座からー』という紀要論文である。1
実はここで引用されているブログ『続・どんぐりの背比べ』は訳あって記事をほとんど削除してしまったのだが、バックアップしてあったページを本サイトに転載したのでお読みいただければ幸いである。2
吉田先生は、この2つの記事を引用した上で次のように解説している。
これらの記述から、症状が落ち着いてきたものの「完治」したかどうかはわからない不安定な状態の中、今の自分を構成しているアイデンティティの一つとして「うつ病」の経験があると考える彼女は、その苦悩を書き出すことのできる「ブログ村」の「「うつ病」カテゴリ」という場所を離れがたいものと感じていることが読み取れる。その一方で、ブログという、症状の重さも様々な同病者を含む不特定多数の閲覧者に開かれた空間で、今後も記事を書き続けることをめぐる苦悩にも言及している。
このように解説されてしまうと何だかくすぐったいが、ブログでうつ病という自らの影の部分を書き続けていた時に、ずっと感じていたジレンマを生々しく思い出してしまった。
少しでも誰かにわかってほしくて共感が欲しくてブログに書くのだから、誰からも反応がないのは書けば書くほど孤独を感じてしまって寂しい。かといって不特定多数の人に読まれて笑われたり、批判や反論をたくさん受けてしまうのは、精神に強いダメージを受けてしまう。打たれ弱い私はそのたびに書くのをやめてしまったり、また新しいブログを作ったり。”書くことが好きな小心者”でしかない私だが、何のためにこうしてまたブログをやっているのか、吉田先生の分析の続きを知りたくなった。
論文では私のブログの紹介のあと注釈をつけている。
本稿では論じきれなかった問題として、「手記」や「日記」に「書く」ということと、「ブログ」に「書く」ということの隔たりがある。
(中略)
そこには、誰か生身の他者に「話すこと/しゃべること」によって、どうにか状況をやり過ごしていこうとする生のあり方が見られるのではないか。そして、そうした欲求を抱えながらも、自分が今いる環境の中で、自らの感ずる〈ままならなさ〉を誰かに「話す/しゃべる」ということが難しい人々にとって、「ブログ」という場所が、「書くこと」と「話すこと/しゃべること」を混在させ、境界をぼやかしながら、その生を支える一つのツールとなりえてきたのではないかと考えられる。
そうなのだ。「日記」と「ブログ」は全く違うのだ。
私は中学生のころから家を出るまでの約15年間、毎日かかさずノートに「日記」をつけていた。内容はほぼ家であった誰にも言えない辛い出来事の話ばかり。時には汚い言葉で「消えろ!」や「死にたい」などと書きなぐっていた。
学生の頃にもしインターネットがあっても、「ブログ」をやっていたかは謎である。自分の家庭がおかしいとさほど思っていなかったし、誰かに共感して欲しい気持ちなど微塵もなかった。逆に恥ずかしくて誰にも言えなかった。時が過ぎるのを待つか、自分が死ぬしかないと思っていた。つまり当時は、”どうにか状況をやり過ごしていこうとする生のあり方”はそこになかった気がする。あの頃は心が死んでいたのだ。
それに比べて、「ブログ」を書くことが先生がおっしゃるように”生を支える一つのツール”なのだとすれば、「ブログ」を書くようになってからの私は本当は生きたくてもがいているのかもしれない。色々なことを諦めてただ死を待っている日々にこの気づきは意外だったが、実は生きたがっているという自分を初めて愛おしく思った。
山田先生によれば、うつ病の闘病記は大きくは次の4つに分類されるという。
うつ病の闘病記に見られる類型
- 読み手の共感を得るために表現に工夫を凝らされたもの
- 情報発信に重きを置いたもの
- 「書く」ことを通じて、病前から現在までを貫く自分自身の生の連続性を見出そうとするもの
- 剥き出しの苦悩が吐露され、整理される以前の思考や感情がそのままに記述されたもの
そのうえで 3 と 4 について
従来、闘病記のあり方としては可視化されにくいものであった後者の2点を言語化したことで、病む人々にとって「書く」という行為が、うつ病にまつわる〈ままならなさ〉の中にあり、時に「書くこと」自体が決して軽くない負担や困難ともなりうる中で、自らの経験に一つの「区切り」をつけるため、あるいは日々をやり過ごし生き凌ぐ唯一の手だてとして、切実な拠りどころとなってきた、という生のあり様の一側面が示されたところにある。
つまりブログに書く、ドロドロしたネガティブな考えも、突発的に発する自暴自棄な言葉も、全て状況や日々をどうにかやり過ごして生きていくための唯一の方法ということだ。うっかりうつ病ブログに迷い込んでネガティブ感情をぶつけられてしまう方には本当に申し訳ないが、何度も言うようだが「嫌なら見るな」なのである。うつ病ブログは管理人の生を支える一つのツール。どうか生暖かく見守ってくださいとしか言いようがない。いいねボタンを押してもらえるだけで命がつながる場合もある。
最後に吉田幸代先生、しがない私のブログに気づいてくださって解説までしてくださってありがとうございました。本当に嬉しかったです。
- 吉田幸代 2015 「うつ病にまつわる〈ままならなさ〉を「書く」ということ
―「闘病記」をめぐる近年の動向を問い直す視座から―」 『日本学報』第34号 2015-03-20 ↩︎ - 過去ブログのバックアップを他にも何件か復元。カテゴリ「過去ブログ」→「続どんぐりの背比べ」 ↩︎
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